ヨハン・バプティスト・シュトラウス (Johann Baptist Strauss) 解説

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ヨハン・バプティスト・シュトラウス

Johann Baptist Strauss

(1804 〜 1849) オーストリア

<ワルツの父>と呼ばれ、息子の<ワルツ王>と称されるヨハンと区別されることが多い。
小さな酒場つきの大衆的な宿屋を営む両親のもとに生まれ、10代前半に当時舞踏曲の作曲家として広く知られたミヒャエル・パーマー(Michael Pamer)の楽団に入り、そこで知り合ったヨーゼフ・ランナー(Joseph Lanner)とともに1819年に四重奏団を作った。
1825年ランナーのもとを離れ独自の楽団を組織し、さらに翌年最初のワルツを作曲してウィーンの大衆の前にデビューした。
そのうちシュトラウスの名声はランナーをしのぐほどになり国外にも広まった。32年には市民軍第1ウィーン連隊楽長、35年には宮廷舞踏会指揮者に任命された。
1820年代後半にはウィーン・ワルツの定型を学びとり、数多くの作品を発表し、33年以来たびたび楽団とともに各地を訪れ、ワルツをはじめウィーン風の洗練された舞踏曲を全ヨーロッパに広めた。
25年スペインの貴族の流れをくむというアンナ・シュトライム(Anna Streim)と結婚、43年には別れて別の女性と同棲したが、アンナとの結婚によって、ヨハン(子)、ヨーゼフ、アンナ(通称ネッティ)、テレージア、フェルデナント、エドゥアルトの6人の子をなした。
この<ワルツの父>の作品はレントラーの流れをくむウィーン舞曲や円舞曲をより軽いそして洗練された内容のものにふりかえ広く人々に親しまれるものを生み出した。
そしてその作品と演奏を通じて伴奏部の第2拍、第3拍を少しずつ前にずらせて独特のリズム感を与え、されに多くの場合導入部と結尾部をもち、その間に数個のそれぞれ独立したワルツを連ねるという形を定着させるなど、多少荒削りな面がありながら、いわゆるウィーン・ワルツの定型を確立させたのである。

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